酒処 はちわれ

わたしの お酒のおつまみ

みんなただの塊

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わたしの人生は、よく使われる表現をすれば「ジェットコースター」のようなものだ。キラキラ光る水面のように生活が輝き出したと思ったら、ジェットコースターが山を越えおわり水面の水が引いていく。その繰り返しを生きている。

 

今はどうなのかというと、ちゃんと水面に水が張っている。それだけではなく、水は溢れるほど張っていて、太陽に照らされて眩しいほどに輝いている。目にうつる全てのものは鮮やかさを増し、わたしの足取りは小石のように軽い。

 

側から見れば、一見それは良いことのように見える。実際に、人生が楽しいのならそれに越したことはないだろう。しかしこの「人生の楽しさ」は、本来の「楽しさ」から一線を越えている。わたしの頭の中には次々と考えが溢れ、それを口から出さずにはいられなくなり、息継ぎもせずに何時間と話し続ける。身体は軽いが、同時にむずむずと虫が這うようにうずき、居ても立っても居られずに、眠りもせずに何かに没頭する。知らない間に20枚ほどイラストを描き終えている。10時間以上勉強している。また、「眠りもせずに」とは文字通り「一睡もしない」ということである。なのに、これだけ動き回っても眠気は来ない。腹も減ることはない。この「楽しさ」はどこまでも走り続け、気がつけば身体も精神もエネルギーを酷使しているのだ。

 

その「楽しさ」はいつまでも続かない。一定の期間は持続するが、前兆もなくいきなり水面の水が干からびていく。キラキラと鮮やかだった世界は灰色に濁り、鋭く聞こえていた全ての音たちはほとんど聞こえなくなる。顔から表情が消え、心からもろうそくの炎に息を吹いたときのように感情が消えていく。身体は四肢に重りを付けられたように重くなり、動きは鈍くなり、しまいにはベッドから這い出せなくなる。唯一「悲しみ」の感情だけが残っている。創作意欲にあふれていたわたしの頭の中は、それに支配されて何も考えられなくなる。それが2ヶ月も3ヶ月も続く。それらの繰り返しの人生である。

 

だが、その繰り返しをやわらげてくれる救世主がいる。溢れ落ちそうな感情たちを受け止めてくれる、お皿のような白くて丸い「薬」である。こんなにも小さなものなのに、その効果は絶大なのだ。この小さな錠剤が水面に溶け始めると、みるみるジェットコースターの線路に山が消えて平坦になる。水面の水量は溢れも干からびもしなくなる。世界は人々が見ているのと同じくらいの輝き方をし、適度な活動ができるようになる。「楽しさ」と「悲しさ」が一線を越えなくなるのだ。しかし、この絶大な効果を妨げるものも存在する。「世間の偏見」である。

 

『精神科に行ったら薬漬けにされるよ』

『精神薬なんて怖いもの、飲まないほうがいいよ』

『気の持ちようだよ』

『あなたより辛い人もいるよ』ーーーー

 

わたしたちのこの「一線を越えた状態」は、まだまだ世間からすれば『ただの甘え』なのだろうし、『かわいそうだと思われたいだけのアピール』なのだろう。精神科とは恐ろしい場所で、精神薬とは麻薬と同じようなものなのだろう。しかし、これらは普通の風邪のようなもの(この表現は苦手だが他に思い当たる言葉がないので仕方なく使う)だし、精神科は風邪を引いたときにかかる内科などと似たようなものだし、精神薬とは例えば有名な「ロキソニン」のように、症状に対するありふれた薬と同じだし、これらは皆が当たり前のように抱えている病気やそれに対する薬の一つや二つに過ぎない。風邪を引いたことのない人がいないように、わたしたちのような人間はそこらじゅうに溢れかえっているのだ。

 

わたしたちは、車椅子に乗っているわけでもなければ、杖をついておぼつかない歩きをしているわけでもない(もちろんそういう方々もいる)。外見は健常者そのものである。わたしたちの「一線を越えたもの」たちは、目で見ることができないのだ。だから、目に見えるものは分かりやすいから、人々は彼らを『かわいそうだ』と哀れんだりする。目に見えないわたしたちには、よく分からないから『狂人』『甘えてる人』、より低俗な言葉を使えば『メンヘラ』と間違った解釈を持ったりする。しかし、先述の通り、目に見える人も見えない人も、皆と同じように〈風邪や慢性的な腹痛などを抱えているのと同じ〉に過ぎないのだ。良かれと思っても哀れみを持ったり、特別に優しく接したり、偏見を持ったりするのは、「彼らを自分たちとは違う存在であると特別視している」ことにしかならないのだ。

 

わたしたちは、生まれたときからただの「人間」というカテゴリーに文類される哺乳類に過ぎず、顔の表面や生殖器の造りや、四肢の数や、脳の神経伝達物質の伝わり方が違うだけ(賛否評論あるが)であって、皮を剥いでしまえば同じような造りの筋肉や骨の塊でしかない。いわゆる価値観や性格などは、後天的に筋肉の塊に装飾されたもの以外の何者でもなく、その根本にあるものは皆似たようなものなのだ。皆女から同じ構造をして生まれ、「生きること」を無意識に行なっているただの動物なのだ。後天的なものに惑わされるのは、表面だけしか見ていない思慮の浅い人間だ。

 

じゃあ、何が正解なのだろうか。答えは至って簡単である。わたしたちにも「普通に接する」だけだ。風邪をひいた人にいちいち『薬なんて怖いもの飲まないほうが良いよ』『気の持ちようだよ』『あなたより辛い人もいるよ』なんて陳腐な言葉を投げかけないのと同じように、ただ何もせずに普通にそこにいれば良いだけだ。なぜなら、全ての人間は筋肉と骨の塊であり、無意識に生きているだけであり、その中に特別な人間など存在するはずがないからだ。

 

わたしたちは、皆女から生まれてきた肉の塊だ。身体の表面や脳の少しの違いは、工夫でどうにでもなる。その工夫を、我々は考え続けなければならない。そしてそれは、無意識にただ生きていた人生に、意識的な、随意的な、大きな動きを与えてくれるはずだ。