酒処 はちわれ

わたしの お酒のおつまみ

プリンセスから紐解く「女性」④

前回の記事では、「アラジン」のプリンセス・ジャスミンを深く考察し、ディズニーによるポリコレの始まりを見てきた。今回は、続編が絶賛公開中である「アナと雪の女王」を考察していく。今回は「女性像」というよりは、現代の課題である「多様性」という観点が重要になってくる。また、前回同様この記事は非常に長くなる。そして、これから記述することはあくまで映画に対する考察であり、私の仮定に過ぎず、一意見でしかなく、深く考えすぎだとも言えるということをご了承いただきたい。

 

注)歴代のディズニープリンセス

ディズニープリンセス - Wikipedia

アナと雪の女王

アナと雪の女王 - Wikipedia

 

エルサの「氷の魔法」

社会的現象にもなった2013年の大ヒット作品「アナと雪の女王」。そのプリンセスは言わずもがな「エルサ」と「アナ」である。今回は「エルサ」に焦点を当てていく。エルサは北欧の雪国「アレンデール」の王女であり、姉妹の長女。一見普通の女性だが、彼女には秘密がある。〈生まれつき氷の魔法が使え、その魔法の力が徐々に強くなっている〉ことだ。エルサはその力をうまくコントロールできず、そのせいで幼少期にアナを傷つけてしまったことがトラウマになっている。彼女は再び他人を傷つけることを恐れ、部屋から出ない生活を長く送ってきた。ここで、単刀直入に私の考察の一つを述べたいと思う。〈エルサの氷の魔法は何らかの障害や疾患を持っている(=マイノリティーである)ことのメタファーである〉というものである。エルサの髪の毛の色は白。人間には珍しい色である。これも〈エルサがマイノリティーである〉という表現の一つなのではないかと推測している。また、氷の魔法はエルサの感情に比例して強さを増す。言い換えると、氷の魔法は精神状態の影響を強く受けるということになる。従って、障害や疾患とは精神障害の意味合いが強い〉と言えるのではないだろうか(エルサは幼少期にアナを傷つけてしまったのが深いトラウマとなっている。また、作中にはフラッシュバックとみられる描写がある。これらを精神医学的な面から考察すると、PTSDなどのストレス障害が推測される。とはいえ、エルサの魔法は先天性のものであるので、精神障害には当てはまらないという考察もできる)。さて、序盤にこんなシーンがある。エルサが魔法によりアナを傷つけてしまったことをきっかけに、両親は彼女にこう言い聞かせる。

 

f:id:Lovexxx:20200203071130p:image

 

Don’t let them in,

   Don’t let them see,

   Be the good girl you always have to be

つまり

誰も入れてはいけない

   見られてはいけない

   いつも良い娘でいるように

 

f:id:Lovexxx:20200201022949j:image

 

そして、彼女はそれを厳守する。国や城の門は全て閉ざされる。もし、「氷の魔法」が「障害や疾患」のメタファーだとしたとき、このシーンは〈両親は娘に障害や疾患があること、つまりマイノリティーであることを知り、世間体を気にして娘を社会から閉じ込めた〉と解釈できないだろうか。マイノリティーであることは良くないとする両親と、そのために人に迷惑をかけまいと社会から引きこもるエルサ。結果としてそれはエルサをより苦しめる。これは、障害や疾患に理解のない家庭が陥りやすいケースである。成長した後も、エルサは魔法(=障害や疾患)を自力でコントロールできずにいるが、両親がエルサを城に閉じ込めたために、それに対する対処が何もされないまま過ごしていた(魔法で何かを凍らせないために常時手袋をしているが、それは一時的な対処に過ぎない)。そのため、意思に反してその力(=症状)は強くなる一方だ。そしてついには、それを常に抑えることに努めてきたにも関わらず、氷の魔法が露呈する日が来てしまうのである。そこで『もうどうにでもなれ!私は1人だけで生きていく』と自暴自棄になったエルサが叫ぶ歌が「Let it go = 放っておいて」なのだ

 

f:id:Lovexxx:20200203073523j:image

 

苦しみは絶対に分かちあえない

一方、アナはエルサの魔法に関する記憶が一切無く、エルサのことをよく理解できない。そして、自らの魔法によりアレンデールを凍らせてしまったことを知り、ショックを受けるエルサに『頑張って!エルサならアレンデールを絶対救えるよ』と安易になだめてしまう。皆さんも〈精神障害のある方に『頑張って』は禁句〉という言葉を聞いたことがあるかもしれない。これらの人々は障害や疾患を抱えつつ生きることを既に「死ぬほど頑張っている」更に「頑張り」を要求するのは、良かれと思っても大きなプレッシャーでしかないのだ。実際にエルサはアナの励ましを受け、よりパニックに陥る。その人の苦しみは、たとえどんな手段を用いてもその人にしか分からない。アナ(=健常者・マジョリティー)とエルサ(=障害や疾患を抱える人・マイノリティー)では、見ている世界が全く違うのだ。

 

f:id:Lovexxx:20200203072449j:image

 

エルサは「多様性」の象徴

後にエルサは『愛こそ魔法を抑えるヒント』と知り、魔法をコントロールできるようになる。また、アナや国民たちもエルサの魔法に理解を示し、アレンデールは平和に戻る。つまり、〈医療介入や社会資源の利用、周りの理解を得たために、障害や疾患が寛解(=完治ではないがある程度治ること)した〉のだ。エルサは障害や疾患を持ちつつもそれを受け入れ(=障害受容)、それとうまく付き合いながら生きる術を身につけたのである。ここで話は変わる。実はエルサは男性とのロマンスの描写が一切なく、結ばれることもない異端なプリンセスである。これは〈女性は必ずしも結婚しなくていい・女性の幸せは結婚だけではない〉という新たな価値観の表現とはいえないだろうか。これらのことから、エルサは〈固定概念に縛られない多様性(=ダイバーシティ)の象徴〉と言えるのである。

 

f:id:Lovexxx:20200203073533j:image

 

アナを助けるのは誰?

今度はアナについて見ていこう。アナは自暴自棄になり逃亡したエルサを探す道中、「クリストフ」という心優しい青年に出会う。クリストフはアナに徐々に惹かれていき、何度かアナの手助けをする。しかし、終盤に瀕死になったアナを最終的に助け出すのはクリストフ(=男性)ではなくエルサ(=女性)なのである(アナが救われるためには『真実の愛』が必要であった。そのため、救ったのはエルサではなく『アナ自身のエルサへの愛』という考察も有力である。どちらにせよ、クリストフという「男性」に救われたわけではない)。また、アナはとある王子に騙されていたのだが、駆け寄るクリストフを押しよけ、自ら王子を殴って蹴りをつける。そう、今までのプリンセス映画に必須だった〈男性が女性を助ける・守る=女性は男性に守られる存在〉という価値観がついに打ち壊されたのだ。前作の「塔の上のラプンツェル」でも、ラプンツェル(=女性)が男性を助けるシーンがある。これらのことから、ディズニーによるポリコレの著しい進化が伺えるのである。

 

f:id:Lovexxx:20200203073209j:image

 

もう、苦しめあうのはやめよう 

さて、数々のディズニー映画を考察してきたが、今までの記事の中でいくつか重複している表現がある。〈「男性」と「女性」に関する固定概念〉〈社会に渦巻くルッキズム〉〈それらを無意識下に幼少期から刷り込まれる〉という表現である。長々と考察してきたが、私はほとんどの考察たちは最後の〈幼少期からの刷り込み〉に起因するのではないかと考えている。そして、これらが人間の根本から消えない限りは、いわゆる男女平等、博愛主義には到底たどり着かないとも考えている。過剰なルッキズムジェンダーに関する固定概念は、女性のみならず男性も苦しむことになる。男なら泣くな、くよくよ悩むな、スカートを履くな、化粧をするのは男らしくない・・・。人間が人間に制限を設けたところで、そこに無理矢理押し込めたところで、何か生まれることがあるだろうか?私はもう、お互いの首を絞め合うような真似はやめにしたいのだ。そして、それを解決する方法は教育を変えることだと思っている。私は、日本の教育には「道徳」というものがあるけれど、なぜそこで「基本的人権(=人間が当たり前に持っている生きる権利)」について説かないのか疑問であるとともに、日本には「人権意識(=人権への理解など)」が非常に不足していると強く感じるのである。それを説く際は、表面的なものではいけない。なぜそれを尊重すべきなのか、尊重されることで人間はどう影響しあうのか、結果として何が起こるのか、深く深く掘り下げて教育することが重要であろう。私は、数学や英語よりも、「基本的人権」の授業の方がよっぽど大切ではないだろうか、とさえ思う。まっさらなキャンバスを持つ子供の頃からジェンダー論、人権意識、ダイバーシティ、ノーマライゼイション(=障害者でも健常者と同じ生活ができる社会を目指す考え)などを学べば、全ての苦しみの根源を撲滅できるのではないだろうか。私たちの苦しみを解放してくれるはずのものも、知る機会がなければ元も子もない。今こそ、教育のあり方を見直すべきでなのではないだろうか。

 

何かを変化させることはとても難しい。特にそれが世論や価値観となってくると、より困難であるだけでなく、気の遠くなるほど時間がかかる。しかし、だからといって諦めてしまったり、黙ってしまえば変化はわずかも起こらない。私は、未来を背負う若者として、学び、考え、気づき続けたい。そして、明日すぐには変わらなくとも、黙らずに声を挙げることからはじめていきたい。声を挙げ続けることが、小さな変化を生み、小さな変化はきっと誰かを救うことに繫がると、強く信じている。(終)