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プリンセスで紐解く「女性」①

近年、「ポリコレ」という言葉を聞く機会が増えてきた。正しくは「ポリティカル・コレクトネス」と言い、〈政治的、社会的に中立の立場をとり、差別や偏見を防いでいく姿勢のこと〉である(Wiki 参照)。

 

皆さんは「ポリコレ」についてどう思うだろうか。私は日頃から差別や偏見、ノーマライゼイションやフェミニズムついて考える機会が多い。そして、ポリコレに賛成している。

 

さて、ここ数年の間、著しくポリコレの進んでいる映画会社が「ディズニー」であろう。今回は、「ディズニープリンセス」という観点からディズニーによるポリコレの進化や、女性に対する意識の変化などを見ていきたいと思う。あらかじめご了承いただきたいのが、この記事は非常に長くなる。また、「フェミニズム」という言葉にアレルギー反応を起こす方はこの記事を読まない方が良い(本当はそういう方にこそ読んで欲しいのだが)。そして、これから記述することはあくまで映画に関しての考察であり、私の仮定であり、一意見に過ぎない。

 

注)歴代のディズニープリンセス 

ディズニープリンセス - Wikipedia

「白雪姫」

白雪姫 (1937年の映画) - Wikipedia

「シンデレラ」

シンデレラ (1950年の映画) - Wikipedia

 

白雪姫とシンデレラの共通点

初代ディズニープリンセスは1937年公開「白雪姫」の白雪姫である。話は変わるが、「ディズニー」創設者のウォルト・ディズニー氏はご存知だろうか。彼は世界のアニメ界に素晴らしい貢献を果たしたが、実は筋金入りの白人至上主義者、女性差別者であったと言われている。1937年、彼はまだご健在であったので、世界初の長編カラーアニメ映画である「白雪姫」の作成にも関わっていたことが予想される。話を戻す。「白雪姫」の話は誰もが知っているであろうと思うので割愛する。

 

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1950年公開「シンデレラ」も多くの方がご存知だと思う。こちらも割愛するが、これらの映画には類似点がある。まず、2人とも《意地悪な女性にいじめられている》こと。次に《美人であり、かつ優しい心を持っている》こと。そして最後は《いつか素敵な王子様が迎えに来てくれることを夢見ている》ことである。

 

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これらの映画は1930〜50年代に作成されている。この時代の女性の待遇は、今よりも差別的であったことが想像できる。また、〈女性とはこうあるべき〉という固定概念が疑いもなく信じられていた時代でもあると思う。さらに言えば、元となった童話が作られたのは今よりはるか昔の話である。これらの時代背景を踏まえつつ、今一度2つの映画について考察していく。

 

「女は陰湿」?

よく聞く固定概念のひとつとして《女性は陰湿で常にいがみ合っている》というものがあるだろう。私達は、幼い頃から〈人間には2種類あり、「男性」と「女性」に分けられる〉という風に刷り込まれている。例えば、男の子はズボンを履き、青が好き。女の子はスカートを履き、ピンクが好きといった具合だ。だが、男の子がスカートを履こうが彼が「人間」なことは変わりがないし、その逆もまた然りである。実際のところは生殖器の構造が違うだけで、どちらも「人間」という存在には変わりがない。しかし、大人になり社会に触れるにつれ、(日本は特に)どことなく〈社会の強者は健常な男性である〉ということも刷り込まれてく。そこで、私はこう仮説を立てた。それは、このような刷り込みを受け、社会において強者となった男性は、「無意識(意識はしていないが、持続的に存在していて、精神に影響を与えうるもの:フロイトによる)」のうちに女性を同じ人間としてではなく「女性」という別の生き物であると思っていて、無意識下で女性を格下の存在とみなし、それらを蔑み、茶化して面白がっても良いと思っているのではないか。そして、女性同士のいがみ合いを見ている男性たちは、意識はしていないのだろうがそれを面白がっており、大袈裟に言えば〈動物同士が喧嘩しているのを楽しんで見ている〉のと同じような心理なのではないだろうか、ということである。私は〈女性は陰湿〉というよりは、〈人間が数人集まるといがみ合う〉だと思っているし、〈面白いから、女性に陰湿であってほしい〉のだと感じている。あなたは、男性がいがみ合っている場面に遭遇したことはないのだろうか?男性と女性がいがみ合っている場面には?本当に〈男の喧嘩は殴り合いで終わり〉なのだろうか?従って、2つの映画で必ずプリンセスがいじめられているのは、いがみ合いを面白がりたくて、そうであってほしいと願う男性特有の心理が背景にあるのではないかと考えた。

 

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(ただし、別の意見として、母親自身が幼児期に十分に愛されて育ってこなかった、母親の自尊心・自己肯定感が低い、などの場合、母親が娘の幸せや自由に嫉妬することがある。継母とプリンセスの表現は、あながち間違いではないのかもしれない。)

 

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フロイトでみる「母親と母性」

もうひとつは《女性は生まれつき母性を持ち、慈悲の心を持っている》。しかし、私からすれば母性とは幻想であり、こちらも男性の「そうであってほしい」という願望、押し付けにすぎない。精神科医フロイトが提唱した「エディプス・コンプレックス」という概念がある。これはごく簡単に言えば〈幼児期に男児が母親に対し性愛感情を抱き、父親に嫉妬するが、同時に恐怖するアンビバレンツ(=相反する感情の両立)〉である。フロイトによると、男児はこの心理を無意識下で抑圧(=願望などを意識下に閉じ込めているが、心のどこかにはそれが存在している状態)している。そして、母親と繋がりたいという気持ちと、そのために父親に近づきたい気持ち(=同一化)の中で葛藤するが、非常に端的に言うと、最終的には両方の気持ちを諦め、両親から離れていくのだという。しかし、この説には批判も多く、フロイト自身にそのような願望とコンプレックスがあったのではないか』とも言われている。また、「エディプス・コンプレックス」は父親、つまり男性の方が強いという男性優位主義のもとから成り立っているし、男児の性的エネルギー(=リビドー)に起因するものである(女児のエディプス・コンプレックスも提唱されているが、男児のそれとは過程が違うだけでなく、現実味に欠けている)。これらの説に則ると、抑圧下にあるとはいえ男性は母親に特別な感情を抱きやすいとは言えないだろうか。そして、これらの概念や、環境、経験、社会との触れ合いなどの要因たちが複雑に絡み合ったとき、いわゆる「マザー・コンプレックス(=母親への固執)」に繋がりうるのではないだろうか。これらを踏まえて考察した結果、男性には無意識下のうちに母親を求め、女性に母親としての役割を担わせたい気持ちがあるのではないか、と思うのである。だから、男性ばかり女性に母性や慈悲を要求する。母性という幻想を、生まれつき存在するものだと都合の良いように解釈する。実際に、あなたは「父性」という単語をどれだけ耳にしたことがあるだろうか?あなたがもし男性であるならば、あなたには生まれつき「父性」は備わっているだろうか?そして、「父性」を求められることはあるだろうか?そう、これらは女性への単なる理不尽な押し付けなのである。そして、この理不尽を受けた2人のプリンセスは、終始「優しい心」を強調されて描かれている。

 

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いつか王子様が

そして最後は、《女性は王子様を待っている》という使い古された表現についてだ。この場合、女性は主体的に男性を求めるわけではなく、ただ待っているだけである。従って、これを言い換えると〈女性は男性に選ばれる存在である〉ということになるのではないだろうか。また、2人とも願い叶って王子様に選ばれたわけであるが、その理由は「美貌」だけである。いつか素敵な王子様が、なんて綺麗な言葉で誤魔化されているだけで、根本にあるのは容姿至上主義(=ルッキズム)と男性優位主義である。

 

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このように、この2つの映画を紐解くと、これらにはたくさんの女性蔑視が含まれていることが分かる。私もこの映画たちで育ち、これらを深く愛しているからこそ、まっさらな心を持った子供たちにこれらが刷り込まれていくことに疑問と不安を持つ。

 

さて、次の記事では「リトルマーメイド」、「美女と野獣」について考察していきたいと思う。