酒処 はちわれ

わたしの お酒のおつまみ

食について

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以前にも似たようなことを書いたが、ひとの人生とは、まずたくさんの工程が積み重なってできた「日常生活」というものが基盤にあって成り立っているものである。日常生活が成り立っていなければ、いわゆる「人間らしい」と言われる文化的・健康的な人生は送れない。それらを支えている重要な工程のひとつが食事であろう。食事なくては人間の身体でいることすらできないのだから、人間でいることのすべての基礎と言っても過言ではないはずだ。

 

睡眠欲、性欲、食欲を3つ合わせて、しばしば人の三大欲求などと呼んだりする。この欲の中で唯一、ひとの人生に花を咲かせてくれるものが食事であるとわたしは考えている。睡眠が楽しみだというひともいらっしゃるだろうが、わたしにとって、その時間のほとんどは意識のない状態で気がつけば朝であるし、性欲が楽しみだというひとももちろんいるだろうが、それにたどり着くまでには様々な障壁がある。また、性欲とは主に人と人との関わりあいなので、欲とは言えど非常に繊細で難しいものである。それに比べて食欲、食事はどうだろうか。ひとりでもふたりでも、どこでも楽しめるし、食の種類は言葉にできないほど色とりどりかつ豊富である。それに、コンビニで買ったパンを道端で食べるような、誰でもできる簡易的なものから、正装をして時間をかけて食べるような格式高いものまで選ぶことができる。どれを楽しみに思うかは自分の自由なのだ。また、食とは時代とともに発展してきた高度な文化でもある。お寿司にお蕎麦、餃子、ラーメン、パスタ、ピザ……。国や地域、食べる時間帯や宗教などでその姿はどんなものにでも変わってみせる。これを楽しまないで、いつも同じもので済ませてしまう、なんて人は、わたしは非常にもったいないなあ、と思ってしまうのである。

 

昭和の雰囲気残る、粋な純喫茶でいただく、深煎りの香り高い真っ黒なコーヒー。大阪で食べた、寿司下駄に載った脂の輝くハマチが美味しいお寿司定食。金沢で食べた、お盆いっぱいの金沢おでん、おでんの汁をたっぷり吸った大きなお麩、少ししょっぱい素朴なお漬物に薄めのお味噌汁、出汁のきいたきらきら輝く混ぜご飯。金箔が載っていて、その口どけとともに日本酒の味がツーンと鼻に抜けていく、舐めるだけで酔っ払いそうなアイスクリーム。気の置けない人とともに作って食べる、大きな茄子とベーコンのごろごろ入ったトマトソースの大盛りパスタに、きのことアスパラガスいっぱいのほくほくした鮭のホイル焼き。スーパーで買ってきた焼き鳥やお刺身とともにひっかける安酒も、それにしか無い、なんとも言えぬ幸福感がある。

 

目まぐるしく回る忙しいこの毎日、ついつい食事の時間は簡単に済ませてしまいがちだが、たまにはテーブルクロスにかわいい箸置きでも置いて、質の良いお酒と、それに合う味の良い食事を用意し、しっかりと食に向き合う時間があっても良いのではないだろうか。文化として、趣味として、食欲を心から楽しめる大人になりたいものである。

時の贈りもの

11月4日、長い付き合いのとある友人から、素敵な贈りものをいただいた。わたしが日頃から愛用しているANNA SUIのフェイスパウダーと、同じくANNA SUIの上品でかわいらしいケースに入った、夜空のように輝くブルーのアイカラーである。

 

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特にこのアイカラーはかわいらしい。友人とともにお店で選んだのだが、このきらびやかなANNA SUIの世界観を閉じ込めたような小さなケースを見た途端、一目惚れをしてしまった。これから、このアイカラーがわたしの人生に星屑を散りばめてくれるであろう。

 

贈りものを貰うのは、やっぱり嬉しい。

相手が自分のために一生懸命選んでくれたものには心が宿ると思うし、相手のためにものに心を宿すのもまた心が暖まって楽しい。しかし、同時に贈りものをすることはとても難しいことでもある。それに、大前提ではあるが「何を贈るか」を決定するのは本当に難しい。自分のセンスを信じて贈りものを選んだとしても、それが相手の価値観と合致するとは限らないし、そもそもそれ自体が正解なのかは本人に尋ねない限りは知りようがない。そうなっては本末転倒なので、贈りもの選びには答えがない。

 

わたしは、相手とともにお店へ出向き、ものを楽しみ、選び、相手へ手渡すまでが「贈りものを贈る」という作業だと思っている。たとえどんなに上等なジュエリーでも、自分一人で勝手に選んだのでは、相手の人格が透明化されてしまっているし、大抵の場合、心の根底には「こんなに良いものを選んでやったぜ」というエゴが貼りついているものだ。その確たる自信を押し付けられると、相手は「こんなに良いものをありがとう」と言うしかないじゃないか。そんな決まりきった手順を相手に踏ませるのは、贈りもののセンスが無いと言わざるを得ない。

 

理想は、やはりともに贈りものを選びにちょっと足を伸ばしてデパートまで出向き、ハンカチやネクタイの柄、コスメや香水ボトルのかたち、お洋服や文房具の色合いなど、さまざまなものを目で楽しみ、有意義に過ごすのが良い。合間にカフェで休憩でもして、あれが良かった、これが良くなかったなど話し合いながら、ふたりで(ふたりとは言わず何人でも)贈りものを決めるのだ。また、贈りものは出来るだけ日用品が良い。例えば、直接身を包んでくれるお洋服やコスメなんかは、身にまとうたびに、ともに選んだ楽しい時間と、相手の真心が伝わってくる。わたしも、このアイカラーを使うたびに友人がわたしに時間を割いてくれたことを思い返しては心が満ちるだろう。

 

贈りものとは、自分のエゴを押し付けるのではなく、ともにものを楽しむことである。そうして時間をかけて選んだものにこそ、真心というものが宿る。人に物を贈るときは、一緒に有意義な時間も贈りたいものである。

こころの水面

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睡眠薬がないと寝れない。「寝れない」というのは一字一句文字の通り、一睡もできないということである。眠気はあるのに目は冴えて、頭の中では目まぐるしく映像が流れ、四肢はむずむずと疼く。そんな状態が朝まで続く。うとうとすることはあれど、決して眠りにつくことができない。その曖昧な境界を行ったり来たりと繰り返す。

 

1日を終えて寝床につき、目を閉じる。すると、だんだんと心の中にたまっている水たまりの水面が、まるで木が風に吹かれてざわめいたときみたいにざわざわと揺れはじめて、居ても立っても居られない気持ちになる。眠りにつこうとすればするほど風は強くなり、水面にはやがて波が立つ。夜が更けていくにつれ、波は高くなり、やがて渦をつくる。渦を覗き込んでみると、真ん中は白く輝いていて、目を凝らしてみると何やら映像が流れている。

 

今日あった人の、ふとした時のするどい表情。今どきの服装。今日話したことが渦の中で反響している。みんなの聞きなれた声が聞こえる。時はさかのぼり、前に住んでいたアパートの前に咲いていたひまわり。毎日会っていたあの人たち。あの人がよくしていた表情。わたしがよくしていた仕草。大学2年生のときに行ったボウリングの帰りの陰鬱な車内。ベッドから這い出して遅れて行った講義、みんなの好奇の目。大学をやめていった人の顔。映像を眺めていたら、突然鳴り響く、母親からの電話。刺すような大きな音でベルが響いている。母親の話す声。母親の重い重い愛情。何よりも怖いもの。母親からの電話は切れない。高校生の頃に友人と写真を撮りに行ったあの景色たち。泳ぐ鯉、揺れ落ちる紅葉、空を仰ぐ夫婦。夫婦のどちらかが言った「あなたが無駄にしてきた時間と金はどう取り返すの?」母親からの電話はまだ続いている。わたしは大丈夫だよ。そう言って電話を無理やり終わらせて、カッとなって電話機を渦の中へ投げようとした。渦はピークを迎えて何もかもを飲み込みそうな勢いだ。その瞬間、手先から渦の中へ吸い込まれる。わたしは渦に溺れて濡れる。すると、ポケットにしのばせておいたブロチゾラムがふわっと水に溶けだした。たちまち渦は収まり、波は低く柔らかくなる。水面は人肌ほどの温度できらきら輝き、倒れ込んだわたしを包む。そして、水に抱かれながら、渦が映した過去のあれこれや、これからの不安要素をひとつひとつ諦めていき、わたしはようやく浅い眠りにつくのだ。

つやつやの夜

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今日は良く晴れていて少し暑かった。久しぶりに大学へ行った。あと4ヶ月ほどでとある国家試験を控えているから、みんなで黙々と勉強した。白くて狭く四角い教室には資料がびっしりと貼り出され、そこにはただページをめくる音と、ペンが机を叩く音、これからの雲行きの怪しさを憂うどんよりとした空気だけが存在していた。

 

帰ってきたのは19時過ぎだった。10月、19時の空気はすっかり冷え込み、わたしの帰路を急かした。ご褒美にコンビニでカフェラテを買って飲んだ。些細な幸せが大好きだ。ちゃんと自炊をした。トマトソースをトマトジュースから作ってパスタを食べた。そのあと、吉本ばなな氏の「哀しい予感」を最後まで読んだ。

 

母親が吉本ばなな氏の大ファンだった。この本はそんな母親から貰った大切なものだ。今でも湯船に下半身だけ浸かりながら、熱心に「哀しい予感」を読み進める母親の姿が昨日のことのように眼に浮かぶ。対して何も考えていなかった中学生の頃、パラパラと読んだきりだったので、ふと読み返してみた。ロマンチックで甘い恋のはじまりの雰囲気、失った過去を想う胸の詰まるようなノスタルジー、愛すべき魅力的な登場人物たち、月夜のように綺麗で澄んだ読みやすい文章などが非常におもしろくて良かった。改めて純文学というものは良いなあと思った。

 

特に主人公の弥生が、おばのまるで生活感のない荒れ果てた館に居候するシーンの描写が良かった。そこに存在しているひとつひとつのものたちが吉本ばなな氏の綺麗な日本語で綴られることで、荒廃した生活の中のどうしようもない美しさやもの悲しさを感じることが出来た。また、全体的に、弥生の心に哀しい現実が迫っていく切なさ、おばの心の隙間に存在する古びた優しい記憶と寂しさ、どこか心地の良い非現実感などが複雑に合わさり、不思議な世界観を持った文体を楽しむことが出来た。要するに、「うまく言葉にできないけれど、なんとなく切なくて、いい感じ」だった。

 

本を閉じ、じっとしていると、満月のように綺麗につやつやと輝く切なさが心を満たしていった。同時に女性的で優しく、暖かさがあり、かつ淡々としていてシンプルな吉本ばなな氏の文章。どこかふわっとしていて、力強さはないかもしれないが、まるで遠くに香る金木犀の香りを嗅いだときのような、淡い感情が心をまんべんなく染めていって、今夜は良い夜になりそうだと思った。

やさしい誘拐

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

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自分から言うことでもないが、わたしは趣味が多いと思う。美味しいものをつくって食べること、お茶を飲むこと、本を読むこと、お洒落をすること、お寺や神社巡り、文章を綴ること、すべて大好きだが、特に好きなのは絵を描くこと、書道や写経をすること、手芸をすることだ(もちろん文章を綴ることも大好きだ)。これらに共通しているのは、「単純な作業を黙々と行い続ける」という点だろう。このような「作業」というものは、人間とそれを取り巻く現実との間でクッションになってくれる。作業を行うことで、その時間だけは現実から少し離れることができる。書道などはよく〈何も考えずに無になれる〉というが、それはいわゆるそういうことだ。散らかった頭の中がいったん空っぽになり、静寂が訪れる。また、作業というものは本当に効力があって、集団の中でもわれわれを柔らかく受け止めてくれる緩和剤となり得る。例えば、全く知らない人間と2人きりでテーブルに座らされたとする。お互い何もせず、膝に手を置き、ただじっと時が過ぎるのを待ち、そこには沈黙だけが走る。ほとんどの人には居ても立っても居られない空気だろうと思う。ところが、何か作業をしながら2人でいる場合、「作業に集中する」という逃げ道ができる。例えば、各自編み物をしながらテーブルに座っているとする。編み物に集中することに逃げながらも、2人は知らない間に同じ時間を共有していることになる。そのうち、気がつけば「わたしは不器用なもので…難しいですねえ…」「わたしも今、間違えて編み戻ったところですよ」なんてぽつぽつと会話が生まれたりもする。作業とはさまざまな側面を持つ奥深い概念だ。

 

先述のように、かく言うわたしも無になれる作業へ没頭する時間が大好きだ。手を動かし、絵を描いたり字を書いたりする感覚を感じながらも、現実とは違う世界へ行けるからなんとも言えぬ心地よさがある。しかし、作業中わたしの脳みそは完全に無になる訳ではない。没頭すると、必ず2人の若者が脳内に訪れてくれる。ひとりはまだ10代の若い女の子、みんなよりも少しズレているところがあって、周りに打ち解けにくい。その代わり、とっても純粋で優しい心の持ち主だ。もうひとりの若者は20代くらいだろうか、女の子よりももっと繊細でいじけた心の持ち主で、いつも世界は自分に背を向けていると思い込んでいるから、ちょっとやっかいだ。

 

男の子は、女の子のことが好きだ。とは言っても、「この人に寄り添いたい」とか「幸せにしたい」というより、「この人なら絶対に僕を幸せにしてくれる」という塩梅。いつも憎み、終わらせてしまいたいと思っているこの世界の中で、女の子は唯一の光だと思っている。一方その女の子の方は、彼のことを好いてはいるが、世界がどうだとか恋愛がどうだとかそんな感情はない。単純に、一緒にいて楽しい人だと思うからいつも隣にいる。

 

はげしい感情と世界への憎しみを抑えられなくなった男の子は、ついに彼女をさらってしまう。しかし、さらうとは言っても、物騒なものではなくて、彼女を2人で見つけたもう誰も住んでいない廃墟に連れ込んで、世界の奥深くにて2人きりで過ごそうと言うのだ。そして、毛布に包まりながら暖炉を囲み、ホットワインでも飲みつつ、毎晩ゆっくりと「世界の終わらせ方」について真剣に話し合おうと言うのだ。

 

でも、いつの時代でも女の子は賢いから、彼が本当に世界を終わらせようとしている訳ではないことを知っている。だから毎晩、彼女は柔らかく微笑みながら、彼の手を包み、ただ横で彼の顔を見ているだけだ。そして、それは間違いなくこの世の中でいちばんの優しさなのだ。ーーーーーーー

 

ーーーーーーそんなことがいつも頭をよぎる。2人の若さゆえの衝動や、どうしようもない青臭さが、わたしの手を導いてくれるような気がする。そして、暖炉の火の暖かさと、女の子の手の柔らかさが、不思議と伝わってくるのだ。ああ、いつか、小説でも書いてみようかしら。

聞いてよ、金木犀

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つい先日、わたしは5年住んでいるお花の多い綺麗な住宅街に帰ってきた。ここ2か月は、用事で別の市に住んでいた。そのアパートはここよりもずいぶん広く綺麗で、立地が良かったから住み心地は抜群だった。それに、「住めば都」というのは本当にあって、2か月もそこで生活をしていたし、その間はいろんな人に触れ合ったから、引っ越す瞬間はとても寂しかった。もう、あそこで日の出を見たり、遠くから香る潮風をかいだり、自転車の上で田んぼに映る夕陽を見届けることはない。明るく愉快で暖かいあのひとに会うことも、もうない。そう考えると、文字通り胸の奥がキュッとする。2か月はあっという間で、まるで夢をみていたようだった。

 

しかしながら、わたしはこのせまくて古い木造のアパートが大好きなのだ。帰ってきて改めてそう感じる。仮にも5年住んでいるし、何よりこの街には緑が多い。前のアパートの唯一の欠点はそこだった。アパートの前の畑にポツンとひまわりやペチュニア、申し訳なさそうにほんの少しだけツユクサが咲いていただけで、あとはコンクリートの集まりだ。わたしにとって季節の自然を愛でることは優先度の高い行為であるから、とても心細かった。それに、わたしが毎年なによりも楽しみにしている花が金木犀で、あの美しくて色気のある香りが今年はついに嗅げないのかと本当に焦った。なぜなら、金木犀の木が一本たりとも生えていなかったからだ。わたしは、あの香りを嗅いで心が満たされる何とも言いがたいその瞬間を、毎年毎年心から楽しみにしている(同じ人は多いだろう)。少し冷たい澄んだ空気の中で、あの香りをからだいっぱいに吸い込めば、たちまち心は笑い、そして、これから来たる寒さや日の短さを想って切なくなる。切なさとは、例えば怖いのになぜか観たくなってしまうホラー映画なんかと一緒で、人は、胸がつっかえて苦しくなっても何度でも切なさを欲するものだ。怖いけど面白い、辛いけどおいしい、苦しいけど楽しい、切ないけど、良い。秋のうろこ雲と金木犀の香りの組み合わせほど切ないものはないが、何度見ても良いものだ(さらにスピッツを聴きながら街を歩けば、なお切なくて良い)。

 

話を戻すと、この街には至る所に金木犀の木が植えてある。アパートのすぐ横には遊歩道が伸びているのだが、その遊歩道じゅうにあの香りが満ちている。だから、この街に帰ってきて金木犀の香りを嗅ぎ、切なくなれたことが本当に嬉しい。この2か月間色んなことをやりきったけれど、今年はもう嗅げないかもしれない、それだけが心残りだったから。やっとわたしの中で秋がはじまったと言っても良い。

 

もし、お花が言葉をわかるなら、金木犀にこう言いたい。金木犀よ、あなただけには、ただそこに立っていて、いつも動かないでいてほしい。何でもないようなふとした時や、心が泣いているような時でも、いつでもちらっと見上げればそこにあなたがいてほしい。何もしなくて良い。ただその香りを漂わせるだけで良いから、いつもわたしをみていてほしい。反面、あなたがいると、とても切ない。あなたの香りは間違いなく美しいから、その完璧さに悲しくなる。それでも、わたしはあなたを欲してしまう。毎年、秋にしか逢えないけれど、切ないけれど、それが本当に心を素敵な色に染め上げるから。だから、いつまでも、その香りを変えずにただそこにいてほしい。

 

生活をゴミ箱へ

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朝早く起きる。コーヒーを入れる。スマホをのぞく。お弁当の支度をする。シンプルなお洋服に着替えて、髪の毛をお団子に結い、顔を洗って化粧水を塗る。乳液もコットンで優しく塗る。歯を磨く。ファンデーションとうすい口紅だけの、簡単なお化粧をする。リュックを背負い、家の鍵を閉める。自転車に乗って、医療を勉強中のとある施設へ向かう。ここまでは毎日同じだけど、施設でのわたしは、日によって全く違う行動をする。17時頃、施設の中の小綺麗な控え室にある、せまいテーブルの上でわたしはそわそわしはじめて、17時半には身支度をしてみんな帰宅する。自転車を漕ぎながら田んぼに映る夕焼け空を眺めて、気がつけば自宅に着いていて、自転車をアパートにとめる。鍵を開けて、リュックを置いて、お弁当を放り投げて、わたしはベッドに大の字に倒れる。それから、エプロンを被り、簡単な料理をする。パスタ、お蕎麦、炒めもの。エプロンはそのままで、自炊した料理を静かに味わう。エプロンを脱ぎ、またベッドに倒れる。大好きな田辺聖子氏の「星を撒く」を開く。1時間半くらいだらだら過ごす。それから、いきなりよし!っと立ち上がり、眠気を払ってお風呂に入る。わたしにとってお風呂は特別な時間だ。この時間は大切にしたい。30分くらい湯船に浸かった後は、1日の中で1番ぐらいに嫌いなドライヤー作業をひたすら行う。わたしは髪の毛が長くて多いから大変なのだ。いつもこの時間だけは苦痛だ。全てが終わったら、セントジョンズワートカモミールのお茶を淹れて、塗り絵や絵画をして過ごす。アナスイのパウダーを顔に塗る。すると、バラの香りとともにふわっとした眠気が襲ってくるので、わたしは1日を終えて夢の中でしばし遊ぶ。そして、また朝が来る。健康的で、規則的な、正しい生活。生活もして、勉強もして、何も間違いのない生活。正しいことは、良いことだ。疑う余地もなく、良いことだ。わたしはきっと何も間違っていないし、この生活なら、この世に存在していることを許される気がする。小さいけれど社会の仕組みの一員として認めてもらえる気がする。なのに、この生活は間違いなく良いことなのに、わたしは何かに気がついてしまって、突然ゴミ箱へゴミを投げ捨てるように、全てを取っ払ってしまいたくなる時がある。何かを日々ごまかして、無理やり正しい生活を演じているのを、やめたくなる時がある。勉学も、文学も、着飾ることも、なにかを作ることも、人と人との関わり合いも、なにもかも本当は誰かが嘘を塗り固めたものに思えてきて、生活する意味を見失う時がある。生活することをやめていた時もある。ほぼ、死んでいるのと同じだった時。あの頃には戻りたくないけど、なぜ戻りたくないのかはわからない。目指す先には何もなく、死が待っているだけなのをわたしは知っているのに、まるでそうではないかのようにわざと振舞って毎日を過ごしている。それに気づいたらいけないことをなんとなく知っているからかもしれない。でも、とりあえずわたしは正しい生活を演じることをやめない。予感通り、目指す先が本当に死しかないとしても、それでも良い。それに早くから気がついてしまって、長い間を死んだと同じように過ごすなら、虚しさをなんでも良いからごまかして、生活を楽しむことを演じる毎日の方がよっぽど良い。