酒処 はちわれ

わたしの お酒のおつまみ

un bel momento

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1月17日の金曜日、わたしはとある場所を目指して寒空の下出掛けることにした。その場所とは、東京ディズニーシーに面するホテル、『ホテル ミラコスタ』内のラウンジ『ベッラヴィスタ・ラウンジ』である(実は筆者は大のディズニー好きである)。

 

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ベッラヴィスタ(bella vista)とは、イタリア語で「美しい景色」という意味であり、その名の通りこのラウンジはディズニーシーを正面から一望できる素晴らしい景観を持っている。また、ディズニーシー入園者やミラコスタ宿泊者でなくても、ラウンジのみの使用が可能である。つまり、ここはパークに入園せずともその景色や時間帯によってはショーを観ることができる、かつ、高級感のある雰囲気を味わえる、非常にコストパフォーマンスの良い穴場なのである。それに、ホテルとはいえドレスコードはなく、わずらわしい食事マナーなどもそこまで求められない。皆可愛らしいカチューシャを付けながら食事をしている。そのため、とても気軽に利用ができるのだ。

 

本来はランチやディナーコースを楽しむことができる場所であるが、実はかなりお得なメニューも存在する。14時半から17時までの軽食メニュー「ケーキセット ¥1,400」だ。コースの場合は平均¥8,000ほどはかかるので、それに比べればかなりリーズナブルなメニューであろう。ケーキセットは、日によってバリエーションの変わるケーキ6種類の中からケーキを1つ、コーヒーかまたは紅茶を選ぶ。ドリンクはいくらでもおかわり自由なので、14時半に入店できたとすれば、美しい景観の中で2時間はゆっくり過ごすことができるのである。また、ラウンジはパーク内のレストランとは違い、子供が少ないのでしっとりとした雰囲気。ゆっくりくつろぐことができる場所はパークでは貴重な存在だ。ドリンクは至って普通ではあるが、ケーキに関してはやはりホテルのものなので特別美味しい。6種類あるのも選択肢があって良い。

 

この日はとてもついていた。14時半に入店しようとしたところ、「ランチのお客様で空きがなく、1時間ほど待っていただく」と伝えられた。しかしこの時、対応していただいた男性のホテルマンの方の対応がとても丁寧だったので、何一つ嫌な気分になることはなかった。ミラコスタ内でしばらく待機していた(素敵な内装や雰囲気だけで楽しめた)のだが、15時前には入店することができた。その際は、電話でテーブルが空いたことを連絡していただいた。そして、あろうことか案内されたテーブルは、窓際の真ん中のあたりの素晴らしい席だったのである。天気は曇りだったが十分だ。なんて美しい景色なんだろう。ケーキはティラミス、ドリンクはコーヒーを選び、飽きることなく景色を眺めていた。ティラミスはクリームが濃厚でとても美味しかった。気分はすっかりイタリア、ポルトパラディーゾである。 

 

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16時45分には退店を求められたが、十分にパークにインしたような気分を堪能することができた。また、キャストの対応も素晴らしかったので、満足度がとても高かった。何より、窓際のテーブルにつけたこの幸運がたまらなく嬉しい。パークにインするのはもちろん楽しいのであるが、長蛇の列に並んだりあちこち歩き回ったり、とにかくせわしがない。従って、意外にもパーク内はせっかくの素晴らしい景観を楽しみづらいのだ。ディズニーシーは特別景観が良いので、雰囲気を心ゆくまで楽しみたい方、ミラコスタを利用してみたい方、ゆっくりしたい方には是非この『ベッラヴィスタ・ラウンジ』はお薦めできる。もしご興味を持ってくださった方は、一度訪れてみてほしい。きっと満足していただけると思う。

 

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冬木の下でゴッホ展

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1月11日、土曜日の晴れのち曇りの寒い日、上野の森美術館で行われている「ゴッホ展」を観に上野まで古い友人と出向いた。1日歩き回っては疲れてしまって、せっかくのゴッホ展を見逃してしまいそうなので、昼頃からゆとりを持って出掛けることにした。紺色の一面ボア素材のジャケットを羽織った。1年前からお気に入りのジャケットだ。 

 

お昼は、「吉野家」で十数年ぶりに牛丼をかきこんだ。とろりと輝く濃厚な温泉卵と、飴色の牛肉を混ぜて食べる。無言でせかせかと、よく噛み締めもせずにひたすらかきこむ。こういう庶民的で地味な食べ方にこそ、幸せが詰まっていると思う。

 

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上野につくと、公園をぐるっと一周する、ぎょっと驚くほどの長蛇の列ができていた。まさか、ゴッホ展の列じゃないよな?予想は当たり、会場に入るまでになんと60分もかかると係員の方に伝えられた。この寒空の下、60分も待つのかと思うと気が遠くなりそうだが、上野の美しく、かつ寒々しく哀愁漂う冬景色を見ながら、ありふれた人々のなかに溶け込むというのも味があって良い。それに、60分など会話をしていればすぐ過ぎる。気長に待つことにした。お供にスターバックスの限定ビバレッジ、「ほうじ茶クリームフラペチーノ」と「ほうじ茶クリームラテ」を選んだ。わたしはフラペチーノを飲んでみたが、ラテよりもほうじ茶の香りが強く、もったりとした生クリームとのマリアージュが絶妙で、非常に美味であった。

 

思った通り、60分はすぐだった。上野の森美術館は意外にもこじんまりとしていて、ゴッホ展はじっくりと絵画を鑑賞する人でごった返していた。オーディオナビを買おうかと思っていたが、ゆっくり鑑賞できそうにもないので諦めてしまった。

 

さて、肝心の内容であるが、非常に勉強になった。オランダのハーグにて印象派の画家と時間をともにしていた時期のゴッホの柔らかかつ鮮やかで暖かみのある作風も良かったが、それよりも、晩年の精神療養施設にて描かれた作品のほうがとても印象強かった。目に映える鮮やかな強い色と、うねるような画風からは、ゴッホの絵画に対する命を燃やすような情熱と、生きるエネルギーのようなものを、頭を拳銃で撃ち抜かれるような衝撃として受け取ることができた。また、ゴッホの絵は横よりも「縦」の空間を上手く使っている印象であった(素人目ではあるが)。

 

また、ゴッホに多大な影響を与えた人物ということで、印象派の巨匠であるあのクロード・モネの作品や、ルノワールの作品まで拝むことができた。ちょっといやらしい言い方ではあるが、これはお得である。また、ハーグ派と呼ばれる印象派の画家たちの作品も展示されており、その現実を忠実に捉えつつも、情景がより鮮明に描かれた素晴らしい作品たちを、この目で心ゆくまで眺めることができた。

 

展示会を観終わる頃には夕刻になっていたので、せっかく上野に来たからにはアメ横に寄らないわけにはいかない。相変わらずの喧騒の中、良さそうな飲み屋をおのれの嗅覚で嗅ぎ分け、2軒ほど飲み歩いた。なめろう、レバ刺し、月見つくね、生ビールにハイボール。かしらとハツのたれ、タンは塩で。センマイ刺し、白菜のお漬物、シメは明太子おにぎり。繰り返すが、ガヤガヤとした狭苦しい、対して綺麗でないどうしようもないような居酒屋で食べる、どこか古くさい、こんな庶民的な食べ物を、酒を酌み交わしていただく幸せは、とうていお金では買うことができない。

 

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ところで、少し酔った後のお米というのはどうしてこうも美味しいのだろう。何気なく当たり前のように食べるいつもの食卓のそれよりも、酔った時はよりお米の艶や粒の感触、程よい硬さが感じられてとてつもなく美味しいと感じる。わたしの周りには、幸せがいっぱいだなあ。

 

個人的に上野はとても好きな場所である。また展示会があるなら是非とも再び来たい。今日も良い日であった。

どうしようもなく猫

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わたしが幼い頃、わたしの家では黒いハチワレ柄の猫を飼っていた。彼は雑種で元野良猫であり、野性味あふれる男らしい性格の猫だった。このブログのトップ画像にもある通り、ナイフのように鋭い眼光を持った、どこか危険で妖しい猫でもあった。

 

彼との思い出は少ない。というのも、最も多くの時間を共にしたのが、わたしが赤ん坊の頃であったからだ。とはいえ、記憶なんて曖昧なものよりも、確実に彼とともに生きてきたという証をわたしは所持している。それは、彼と同じ黒のハチワレ柄をした小さな猫のぬいぐるみである。わたしは彼を、近所への買い出しから家族旅行まで、どこへでも連れて行った。彼とともに泣き、笑い、色々な景色を見てきた。彼はわたしの唯一の親友であり、親愛なるパートナーである。

 

さて、話は大きく変わる。わたしは花の絵を描くという趣味がある。そこで、わたしが描いたという証のような、いわゆるサインみたいなものが欲しくなった。素人が偉そうにサインだなんて…と恐縮する気持ちもあるのだが、「物事は格好から入る」というのも時には良いのではないかと思ったので、何か自分だけのサインをつくることにしてみた。

 

以前、〈ふくろうはわたしのトレードマークである〉という話を記事にしたことがあるのだが、心の大親友である「彼」もまたわたしの大切なトレードマークである。それに、有名人気取りで蛇が這ったあとのようなサインをつくるよりも、絵の隅っこにスタンプのようにマークを描くというのも良いなと思ったので、彼の顔をサインとして使うことを試みた。これはお正月限定のサインである。

 

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皆さまにわたしの友人である彼を詳しく紹介しよう。

 

彼は猫としてはもう良い年の大人猫で、少し野蛮なところがある。しかし、本当は不器用なだけであり、心の根っこには優しさが見え隠れているような猫だ。毎朝日が高く昇った頃になるとゆっくりと起きだし、しばらくぼーっとしたあと散歩に出かける。餌は他人(猫)には一切頼らず、自分で調達する。彼は天性の一匹狼(猫)であり、それが彼のポリシーでもあるからだ。しかしながら、喧嘩に強いというわけではない。しょっちゅう近所のボス猫に餌を横取りされているし、勝敗はいつも五分五分といったところだ。同時に、そんなところが彼の愛らしい部分でもある。彼は群れない。毎日空き地の隅で昼下がりに開かれる集会(集会といっても、猫が集まって皆でただそこにいるだけ)にもあまり参加しないので、他の猫には奇妙な印象を与えている。彼自身、それを誰よりも自覚しているのだが、そんな自分を恥じたりはしない。たまに、寒空の下、ひとり夜を見送ることに感傷的になるときもあるが、こんな切なさを噛みしめる、言葉では言い表せぬこの淡く優しい時間が好きなのだ。そうして彼はどの猫よりも遅く眠りにつく。彼はどこまでもそんな猫であり、今日もひとり放浪するのである。そして、そんな彼が、どうしようもなくわたしの心から分かり合える大親友なのである。

天日の歓迎

今週のお題「2020年の抱負」

 

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今日は1月2日、天気も良いので初詣に出向くことになった。朝は早く起床してコメダ珈琲のモーニングを食べた。そこでいただいた蜂蜜のかかったヨーグルトが濃厚かつ非常に美味で、蜂蜜が食わず嫌いであったことに気がついた。まるで小難しい本のように分厚いふわふわの食パンにバター、卵サラダを塗って、まろやかな味わいのコーヒーとともに朝食を済ませた。

 

さて、目的地は、茨城は鹿島の鹿島神宮である。鹿島神宮は、武道や闘いの神様である「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」を祀る、常陸国の一宮。利根川下流に建つ「香取神宮」「息栖神社」と並んで、「東国三社」のひとつである。ここは、わたしが赤ん坊の頃から参拝し続け、大切にし、心の拠り所としてきた深い思い入れのある場所だ。今年もまた、ここに帰ってきた。

 

武甕槌大神は全国の春日神社にも祀られており、ここ鹿島神宮でも春日大社の御分霊を拝むことができる。この場所はあまり知られていない穴場のようなスポットで、細く長くそびえ立つ木の隙間から光る日光が神聖な空気をよりピリッと整えている。

 

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春日大社の御分霊

 

宮内はとても広く、農作の神様であるお稲荷さまも祀られている。また、武甕槌大神は、当時地震を起こすと考えられていた大ナマズをその屈強さで治めたとも言われており、そのナマズの頭であるとされる石「要石」なども見ることができる。

 

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宮内にあるお稲荷さま

 

神宮は坂の上にある。レンガ造りの坂道を登り、参道に入ると屋台が並び、ひとは片手に食べものを持って笑い合い、お面をつけてはしゃぐ子供が、お年玉をもらって微笑んでいる。屋台の列を先に行けば石造りの大きな鳥居がそびえ立ち、人々を大きな口を開けて人々を飲み込んでいく。

 

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参道は多くの屋台やお店で賑わう

 

本殿は非常に珍しい造りをしている。本殿はわたしたちに向かって立つのではなく、横を向いているのだ。これは北を向いていることになる。春日神社の本殿は西に向いていることが多いようであるが、鹿島神宮だけは北を向いているのである。これは朝廷に対し反発していた東北地方の統一(いわゆる「蝦夷」の弾圧)を願うためだと言われている。

 

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本殿が北を向いている

 

ともにいた母親がこんなことを言った。「参拝しているとき、急に人が少なくなったり、宮司に会ったり、急に雨が降ったり止んだり、そんな奇妙なことが起きたときは神様が歓迎してくれている証なんだよ」と。また、久しぶりにおみくじを引いてみた。結果は「吉」で、まずまず良いことが書いてあった。

 

しかし、歓迎の証もおみくじも、言ってしまえば「嘘か本当かわからないこと」である。そこに確かなことは全くなく、ふわふわと抽象的すぎて非常に不安定だ。参拝中に人が少なくなるタイミングなんて大いにあり得るだろうし、宮司さんなんてそこら中にいらっしゃるし、天気なども変わっていくのが当たり前である。おみくじなんて、言ってみればマッチングアプリのようなもので、偶然出会っただけの、ただの紙切れであろう。

 

しかし、大晦日に綴ったように、人間は終わりや正解のない繰り返しの作業の毎日を、それらが確定しない不安の中で、右往左往して生きている。わたしが思うに、そもそも神様というものがそうであるように、「嘘か本当かわからないもの」は信じていた方が健康上良いものである。毎日を右往左往する中でも、神様が歓迎してくれている。おみくじの通り良い未来が待っている。そう信じていた方が、仮のものではあるものの、不確定な毎日が正解に近づいたような気がして、心に余裕が出る。良いものは何でも自分のものとすれば、自然と幸多き毎日になるだろうし、ほころんだ心を通して見る世界は色あざやかで、暖かなものであろう。

 

今年は新しい元号でのはじめての新年を迎えることができた。これもまた、幸せなことだと思うことにする。神頼みも良いが、自らで幸多き毎日をつくっていくためにも、今年はひろい心で様々なものを信じ、小さな小さなどうしようもない幸せを噛み締めていこうと思う。また翌年も、鹿島神宮に、全てのものに歓迎していただけるように。

 

(あけましておめでとうございます。今年も良い年になりますように。)

雑草を抜き続ける

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ここ最近、文章を書くモチベーションが上がらなくなってしまい、しばらくブログから離れていた。これまで色鮮やかに移り変わっていた全ての景色たちが急に灰色になってしまう時があって、それが今だった。この時期に突入すると、音楽や文学やお花の色やテレビの雑音などが全て意味のないただの物体になってしまうから、いつもは自然にふわっと思い浮かぶ書きたい文章が、全くと言っていいほど浮かんでこない。しばらくの時間をベッドの上で過ごしていた。気がつけば世間にはクリスマスや年の瀬が近づいていた。

 

年の瀬はいつも田舎の実家へ帰省することにしている。うちは親戚も多いし、わたしの帰りを待ってくれている人、会っておきたい人がたくさんいる。実家は海岸のすぐ先にあって、いつも潮の香りがしている。

 

今日は大晦日ということで、いわゆる大掃除をした。わたしは庭の雑草取りと玄関の掃除を担当した。はしる潮風と、師走にしては暖かい陽気の中、ひたすら雑草を抜き続けた。雑草たちや時折飛び出してくる小さな芋虫たちは、ただ生きているだけなのに人間の勝手な都合で駆除されてしまって、少々申し訳なくはあるが、わたしも仕事なので仕方がない。無心で雑草を抜き続ける。そして、玄関の苔を落とし続ける。気がつけば日は少し傾いていた。

 

晦日が近づくたびに思うことがある。人生とはひたすら「繰り返し」であるということだ。必ず再び雑草は生えてくるし、苔も生えてくるというのに、人間たちは年の瀬になるとせっせとそれらを除く作業をする。大晦日でなくても、明日には必ず埃が積もるというのに、毎日箒を揺らしたり、必ず排泄されてしまうというのに、懲りずにわたし達は食事を摂ったりする。お風呂に入る。夜になると布団へ潜る。朝起きて髪の毛をとかす。出かけていく。膨大な時間を、ひたすら繰り返し作業に費やしていく。そして、気づけそれは人間にとっての「生活」となっていくのだ。

 

だから、わたしは毎日の様々な繰り返し作業を行うたびに虚しくなる。だって、結局また雑草は生えてくるのだから。果てしない繰り返し作業の中、終わりの見えないことが怖くなるし、はじめは躍起になって燃やしていた炎もだんだんと勢いが弱くなってしまう。しかし、その虚しい繰り返しの中にも、確かに安らぎや、楽しみや、言葉にすることのできない何かが存在していると思う。そして、何よりそれらは、繰り返されることで大きな意味を持つ。人間が繰り返してきたたくさんのことたちは、確かに雑草は何度も生えてしまうけれども、決して無意味なことではないのである。

 

新年を迎えても、わたしは、繰り返しの作業に意味を見出すことや、その後にアイスを食べるだとか、お風呂にゆっくり浸かるだとか何か楽しみを持つことを忘れずにいたい。そして、繰り返すこと自体を楽しむ気持ちを持ち続け、人生を楽しめる素敵な女性となれるよう、前を向き続けようと思う。世界は灰色だけれど、わたしの心の中の色は失わずに、雑草をひたすら抜き続けたい。

 

(このブログを一度でも読んでくださった皆さま、ありがとうございました。良いお年を。)

わたしはふくろう

お題「愛用しているもの」

 

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わたしはときどき、心と体が引き剥がされてしまうような、自分が自分でないような気持ちになる時がある。それは例えるならば、「わたし」をというものをかたちづくっている自我そのものが、まるで幽体離脱をするかのように体からどこかへ飛んでいってしまうような感じだ。「わたし」を構成する、芯となるものが無くなってしまうと、残された体は行き場を失い、生きることを徐々にやめてしまいそうになる。そのうち、「わたし」自身がぽっかり無くなってしまって、「わたしが生きていた」という事実までこの世から去ってしまいそうで怖くなる。

 

そこで、「わたし」という大きすぎる観念を、なにか目に見えるもので表現し、どこかへ飛んでいきそうなふわふわとした「自我」を確たるものにしようとしてはじめたのもののひとつがこのブログである。心に渦巻く感情を文字に起こすことで、わたしが生きてきた日々が事実としてこの世に残る。まるで流れる濃い血のように、わたしの日々が活きてくる。わたしにとって文章を綴ることとは、生きている証を残すことと言っても過言ではない。このブログは、「わたし」の証である。

 

「わたし」の証はもうひとつある。「ふくろう」である。それはわたしのお気に入りの動物であり、わたしの信念や理想、スタイルを一言で表現するトレードマークのようなものだ。わたしは昔からふくろうが大好きで、ポーチの柄やブローチなどにしばしば好んで取り入れている。お財布、ペンケース、iPhoneケース、ペンダント、すべてふくろうが施されているし、お部屋には「ジュレップ」と名付けた白いふくろうの壁掛けを下げている。そして、しばしばふくろうと自分を重ねる。言ってみれば、わたしといえばふくろうなのだ。

 

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ふくろうは他の動物に比べて頚椎が多いのと、目があまり動かないために首がよく回る。したがって、目こそ動かないものの、非常に広い範囲を見渡すことができる。また、世界中で賢さの象徴として親しまれていることからも分かる通り、ふくろうは非常に賢い動物だ。彼らはその広い視野と高い身体能力、豊かな知能を駆使し、食物連鎖の頂点に君臨し続けているのだ。わたしも彼らのように、幅広い視野とまっすぐな賢明さを持って、常に向上して行きたいのである。大きな丸い目で物事をじっと見つめ、静かに真理を見極める。ときどき、首を傾げて周りを見渡し、知識を得続ける。わたしはそんな、小さくて目の大きな、ふわふわした、賢くて強いふくろうになりたいのだ。ちなみに、実は非常に小心者であるところも自分と重なってとても気に入っている。

 

そういう訳なので、ふくろうが側にいると、わたしが目指すべき場所が照らされるような気がして安心するのだ。わたしの分身として、生活の様々な場所にふくろうを施すのが大好きだ。わたしが目指すべきものはいつでもふくろうであり、わたしとはつまりふくろうなのである。

女ひとり、心から

お題「ちょっとした贅沢」

 

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今日は通院している大学病院への定期検診の日だった。秋晴れのうろこ雲から光が射すが、気温は師走のようである。思わず黒い厚手のタートルネックニットを選んでしまう。黒色に負けないように、深い夜空のように輝く青のアイシャドウをぬった。思えば、例え行き先が病院でも、メイクやお洒落には絶対に気を抜かないというのがわたしの育った家での決まりというか、おおきな哲学であった。もちろん、強迫的に行うのではなく、主体的に楽しんで行うのが前提だ。身だしなみは人間らしく人生を送るための基本なのである。最寄りの駅へ向かうバスの中では、先週末に古本屋で買った田辺聖子氏の短編集「春情蛸の足」を読んで過ごした。秋らしいワインレッドのネイルと金色のリングが視界にちらつくたびに気分が良い。秋が好きだ。

 

以前にも何度か日記にしたことがあるが、わたしの通う大学病院はまさに大学病院らしく大きくて清潔で近代的なつくりをしている。そしてその横にはいくつもの薬局と、小綺麗なレストランがひとつある。今日はそこで天ぷら蕎麦を食べるためにいつもより早く家を出たのだ。はじめてここへ来た時にもそれを食べたのをよく覚えている。

 

このレストランはいつも流行っていて、病院に来た患者はもちろん、病院の職員と思われる人や、ひとりでゆっくりと過ごしている人なんかも少なくない。たくさんの食事をする人たちが、昼時のレストランにふさわしい空間をつくっていた。エプロン姿の店員のおばさん達は、せわしなく、かつてきぱきと行ったり来たりしていた。ちなみに、わたしはひどく内気で小心者なので、レストランで手を挙げ大きな声で「すいまーせん!」と注文を頼む工程が大嫌いである。そのため、いつも蚊の飛ぶような小さな声で、声をかけようかどうしようか、あぁどうしよう…そうまごまごしているうちに店員さんは厨房へ、という具合だ。だからチェーン店に多いボタン式の注文制度の方が好きなのだが、あいにく今日はボタンはなかった。勇気を振り絞って手を挙げた。

 

そうこうしているうちに、お蕎麦はあっという間に届いた。ここで食事をするのは実に半年以上ぶりである。

 

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水でしっかり締められた、ツヤのあるお蕎麦が陽に当たりみずみずしく輝いている。いくつもの天ぷらたちは適度な油でカラッと揚がり、それぞれが寄り添うように積み重なっている。うっすらと赤い身の透けた大きな海老、先の丸っこい茄子、紅葉のような鮮やかな色のかぼちゃ、小ぶりだが厚みのあるイカ、そしていちばん上に彩りをつくる大葉の明るい黄緑。何を隠そう、冷たいざる蕎麦が大好きなのだ。完璧に整ったお盆の上の情景をしっかり目で楽しんだあと、薄めの麺つゆに薬味とわさびをたっぷり混ぜ、お蕎麦と天ぷらを交互にいただいた。

 

わたしにとって食が特別な意味合いを持つことはひとつ前の記事に長々と綴ったが(食について - 酒処 はちわれ)、わたしは特に人と食を楽しむことが好きである。なので、普段外食といえば誰かしらお供がいるのがほとんどだ。しかし、ツルツルとしたお蕎麦の歯ざわりやイカの天ぷらのモチモチの歯ごたえを噛み締めたとき、ひとりでゆっくり食べるというのも良いものだなあ、と心からしみじみ思った。料理とそれをつくった人へ敬意をを払いながら、お盆いっぱいの料理と正面から向き合い、お皿の色かたちに美しい彩りや香り、もわもわと湧き出る湯気の様子などを心ゆくまで楽しむ。それからゆっくりゆっくり、誰にも邪魔されたり急かされたりすることなく、時間をかけてその複雑な要素すべてを余すことなく味わいつくすのだ。お蕎麦を食べ終えたあとの私は満ちたりていて、心から幸せだった。隣のテーブルにもひとり、まるで愛おしそうに器に手を添えカツ丼を食べる綺麗なスーツ姿の女性がいた。その女性は、今わたしのなかに生まれたこの贅沢を、既に知っていたようであった。時間をかけていかにも美味しそうに頬張るその姿を見て、今日はここへ来て本当によかったな、と確信したのだった。

 

診察はいつも通りだった。通院期間も2週間ごとから3週間ごとへ延びたし、診察時間もずいぶんと短くなった。その短い時間の間にでも主治医は固く眉を寄せて、いろんなことに考えを巡らせているのがよくわかる。わたしのことを「治そう」としてくれているのが伝わってきて、いつも感謝の気持ちでいっぱいになる。このまま快調へ向かうことを願う。そしてこれから、もっとたくさんのおいしい贅沢に出会い、舌と心の豊かな女になれることを祈って、今日の日記はここまでとする。